レーシングカーデザイナーとしてACコブラ、シェルビーGT350など後世に残る名車を数々創り上げたキャロル・シェルビー氏を紹介。
「現存するすべての『シェルビー・コブラ』や『マスタング』の所在を把握すべく追跡調査を開始した『シェルビー・アメリカン・オートモービル・クラブ(SAAC)』や、その関係者たちの情熱には脱帽するしかない」と、ディアリーさんは言います。「多くの人々が、シェルビー・ファミリーの一員であることを望んでいるのです。皆、共有すべき自分の“シェルビー物語”を持っているんですよ」と、熱弁をふるいます。
キャロルシェルビーの1966年のコブラ427スーパースネーク
フォードGTは、1966年のル・マンで1位から3位を独占した。シェルビー・アメリカンは翌年もフェラーリに打ち勝って勝利を手にした。ロードカーのコブラとマスタングは、ル・マンの勝利という付加価値を得てさらに人気を博した。1966年にはシェルビー・マスタングGT350が前年の4倍もの売れ行きを示し、翌年には、7リッターエンジンを搭載したGT500もラインナップに加わっている。
「キャロル・シェルビーおよびシェルビー・アメリカン・チーム、そして彼らのつくり上げたクルマが一体なぜ、これほど独自の存在として世に認めらたか? その秘密の一端は、例えば『フィル・レミントンやピーター・ブロックといった自動車開発における最高の人材を引き込むにはどうすれば良いか?』といった処世術(言わば“人たらし術”)を、 シェルビーが良く理解していたことと無関係ではないはずです。そしてもう一点、彼らは“ブランディング”という言葉が生まれる前から、“ブランディング”のことを良く理解していたのです。クルマそのものには手が出なくても、Tシャツやライター、キーホルダーを持つことで、シェルビー・アメリカン・チームの一員となることができますよね。つまり、彼らが生み出したのはただのクルマではなく、クルマを超えたブランドだったのではないでしょうか」。
シェルビー コブラ CSX 6000シリーズ キャロルシェルビーレーシングナンバー!!! ..
一方、ル・マンの勝利で製品の高性能さをアピールできたと判断したフォードは、レース活動の縮小に向かった。シェルビー・アメリカンが手がけるマスタングのロードモデルも、パフォーマンスの向上よりもスタイルの派手さを狙うことに重点が置かれるようになっていき、1969年モデルを最後にラインナップから消えた。同じ年、キャロル・シェルビーはレース活動からの引退を表明する。マッスルカーの時代は終わりを迎えようとしていた。
読者の皆さんの中には、既に知っている人も多いかとは思いますが、ここでキャロル・シェルビーについて改めて簡単に紹介しておきましょう。時は1950年代、未だ無名のシェルビーがテキサス州で養鶏場を営んでいた頃に遡(さかのぼ)ります。
プロダクションモデルとレーシングモデルのACコブラと写真に収まるキャロル・シェルビー【225995】
彼はレーサーとしての才能は直ちにあらわし、アメリカ各地で連戦連勝を続け、さらにルマンではアストン・マーチン・チームに加わり、さらに勝利を増やすこととなります。健康を理由に引退を余儀なくされた後は、アメリカ製のV-8エンジンを英国車,(AC Car)に取り付けるという奇想天外なアイディアを実行することとなります。こうしてできあがった「シェルビー・コブラ」は1960年代のスポーツカーレースを制覇し、ワールド、マニュファクチャラー・チャンピオンに輝きます。1966年、67年にはシェルビーGT350SでTrans-Amのチャンピオンに、1966年にはフォードGT-40を世界スポーツカー・チャンピオンシップへと導きます。
「具体的に何が私を捕らえて離さないのか、自分でもはっきりしないのです。ただ魅了されてしまうんですよ」と言うディアリーさんですが、ひとつ興味深い指摘をしています。
キャロルシェルビーが死ぬまで所有していた427コブラが○○億円で落札!ブルネイ国王が所有していた珍車も登場
2006年、GT500の名が復活する。マスタングは6代目となり、初代を思わせるデザインをまとっていた。キャロル・シェルビーは84歳になっていたが、GT500のメカニズムやスタイルには彼の意見が反映されたという。フォードのハイパフォーマンスカーには、やはりシェルビーの名がふさわしいのだ。アメリカ人が大好きなクルマは、今も昔も底抜けに明るいスポーツカーなのである。
戦後まだ間もないアメリカでは、草の根の自動車レースが盛んに行われていました。友人のすすめによって初参戦したレースで見事優勝を飾ったシェルビーは躍進を重ね、その名はみるみる広まります。その後、レーサーとして国外に進出をしたシェルビーは、やがてル・マン24時間レースでアストンマーティン「DBR1/300」を駆って優勝するなど、確かな実績を積み上げていきます。
【コブラ427】CSX3015キャロルシェルビー専用車スペック
戦後の復興を果たして高度経済成長期に入った日本は、1964年に経済協力開発機構に加盟する。欧米と対等に自由貿易を行うまでに発展したのだ。1965年には乗用車の輸入が自由化され、日本の自動車産業は体質強化を迫られた。
シェルビーコブラのモデル概要 1962年にキャロル・シェルビーが世に送り出したシェルビーコブラは、チ..
シェルビー最高傑作の一つは、今も個人で使用する、コブラ427S/Cです。1965年には当初の289コブラの生産を中止、より刺激的な427へと生産をシフトします。その性能は驚異的で、一般仕様ですら390bhp、レース・チューニング・バージョンに至っては480bhp、トルク480というモンスターです。以後3年間、コブラ427は間違いなく、世界一ワイルドでエキサイティング生心の地位を占め続けました。今日でも、その希少性と驚異の性能によってナンバーワンの座を確保、コレクターの垂涎の的となっています。
本家キャロルシェルビーが唯一公認したリプロダクションモデル「スーパフォーマンスコブラ」のオーナーさんにお聞きした様子をお伝えします。
シェルビーは、1950年代にフェラーリからドライバー契約を持ちかけられたことがある。しかし、彼が選んだのはアストン・マーティンで、1959年に彼はドライバーとしてフェラーリを打ち破った。今度はコンストラクター同士の戦いである。慢性的な資金不足に悩むフェラーリと違い、シェルビーにはあり余る金を持ったフォードがついている。
エンジンの生産を停止したことでACエースはエンジンを失い、生産中止の危機に陥りました。 そこにキャロル・シェルビー ..
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5月10日、シェルビー アメリカンの創設者であり伝説の名車シェルビー コブラの生みの親キャロル・シェルビー氏が、生まれた故郷テキサス州の病院で、その輝かしい89年の生涯に幕を下ろした。
キャロル・シェルビー氏は、1923年1月11日テキサス州シースバーグ市で生まれた。第二次世界大戦時にアメリカ陸軍のテストパイロットと教官を勤めた後、戦後は養鶏所経営に専念していたが、50年代にレーシングドライバーとしてデビュー。フェラーリやマセラッティを駆り3度の全米スポーツカーチャンピオンを獲得し、59年にはアストンマーチンでル・マン24時間レースに優勝するなど(F1にまで参戦)、数々の栄光をその手中に収めた。
だが翌60年、幼少時から抱えていた心臓病のためにレーサーを引退すると、スポーツカー・マニュファクチャラーへと転身。シェルビー氏は、ライトウェイトスポーツカーに高出力エンジンを搭載するパッケージングにトライし、英国AC社の2シーター・オープン「エース」にフォードV8エンジンを搭載した名車「ACコブラ」を、62年のニューヨーク・オートショーでデビューさせたのである。
同年、ロサンゼルスにシェルビー・アメリカンを興し「シェルビー・コブラ」の市販化を開始すると共に、翌年にはボブ・ボンデュラント、ダン・ガーニー、ケン・マイルスといった一流ドライバーと共にレーシング・チームを結成。
コブラベースのレーシングマシンを擁してヨーロッパのレース界に進出すると、フェラーリ、ポルシェ、ジャガーを抑え、65年にはGT世界選手権を制覇。翌66年にはル・マン必勝マシンとして開発されたフォードGT40で優勝し、さらに67年に連覇を達成するなど、一躍60年代のフォード・レーシングの立役者となった。
ビッグブロックV8を搭載した「427コブラ」やフォード・マスタングをベースにした「シェルビーGT500」といったアメリカスポーツカー史上に残る名車達を世に送り出したキャロル・シェルビー。現在でも最新のマスタングの最強モデルとしてシェルビーGT500の名を冠したモデルがリリースされるなど、アメリカンスポーツカーを語るにあたり、欠かすことのできないビッグネーミングだ。
今年は、奇しくもシェルビー・コブラ誕生50周年にあたる節目の年。この世を去ったキャロルに世界中のファンが深い哀悼を捧げたのである。
スーパフォーマンス MK3 COBRA シェルビー コブラ ライセンスドモデル 7.0L 427OHVエンジン
シェルビー界の重要人物は他にもいます。ミシガン州の医療関係ビジネスの起業家ウィリアム・ディアリーさんです。十代の少年だった頃、近所の家のドライブウェイに停められていた1968年式「シェルビー・マスタングGT500 KR」をいつも眺めていたと言います。シェルビー・ファンには常識でしょうが、KRとは「キング・オブ・ザ・ロード(King of the Road)」の略称です。
キャロル・シェルビーの戦い 生粋のカーガイ 常勝フェラーリを倒す
政府は自動車業界の再編が必要であると考え、通商産業省はメーカー間の提携や合併を推進する姿勢を見せた。その頃、慢性的な赤字が続いていたのがプリンス自動車である。スカイラインやグロリアなどの魅力的なモデルを開発していたが、販売体制が弱く売り上げに結びつかなかった。
キャロル シェルビー セレモニー (Carroll Shelby)
ロサンゼルスのロバートソン通りにあるピーターセン自動車博物館。駐車場3階に特設された大型のイベントホールに1200人以上が詰めかけた。
現品 キャロル シェルビー レーシングコブラ : b9696 : ミニマルヤマ
その後、「ダッジ・バイパー」の開発にも加わるなど活躍の場をさらに広げ、ついには食品業界にまで進出し、人気の“(=テックスメックス料理の代表格。アメリカの国民食のひとつ。レーシングドライバーだった頃に、シェルビーが遠征先等でよくつくっていた料理)のブランドを立ち上げたりもしています。
京商 エグゾト コブラ ロードスター キャロル シェルビー ドライビング
1965年、フォードは新たなレース体制を発表する。シェルビー・アメリカンがマシンの製造とレースを請け負うことが明らかにされた。シェルビーからは、マスタングGT350と427立方インチ(約7リッター)のV8エンジンを搭載するコブラが発売されていた。ル・マンを戦う新しいフォードGTも、427立方インチの巨大なエンジンを搭載する。レースでの勝利は、シェルビーにとってもビジネスチャンスなのだ。レースで名声を高めてロードカーを売るという方式は、フェラーリと同じだった。
先月のブッツィ・ポルシェに続き、またも偉大な人物が亡くなりまし ..
巨費を投じ、ヨーロッパに新会社まで立ち上げたにも関わらず、前年のル・マンでは散々な結果に終わっていたのです。
1/12scale シェルビー コブラ 427 S/C FAM (ダイキャストモデル)
4月に登場したのが、日産サニーである。開発陣は当初850ccクラスのエンジンを積む考えだったが、将来の発展性を考えてボアアップし、1リッターに拡大された。販売は好調で、5カ月で約3万台の受注を記録した。